神戸市東灘区在住の小説家、田中良平さんの短編小説集「バラード神戸」(ドメス出版)を読んでいる。田中さんは、私が親しくさせていただいている建築家の古田義弘さんを通じてお会いしたのが最初で、この本の挿絵は、古田さんが描いた神戸の街並みスケッチだ。
田中さんの本は、以前に読ませていただいた「青春疾走」も同じく、終戦直後の神戸の様子が描かれている。
神戸で生まれ育った私には、S30年生まれで終戦後15年あたりからなら、ぼんやりと残っている記憶が蘇り、実際には知らなくても映画を見ているかのように、当時の港や六甲の山並み、人々の様子、三宮や元町の景色とともに、そこにいたに違いない若い父の姿が目に浮かぶ。
私の亡くなった父は、大正14年生まれ、終戦当時は20歳、まさに、田中さんの小説の主人公と同じ青春の真っただ中であった。大阪では「どてらい男」で有名であるが、神戸にも当時の建国需要で繁盛した建設土木機材商社があり、父はそこの役員をしていた。身長185cmほどの、当時としては珍しく長身の大男だった。
今では考えられない混雑ぶりであった三宮のそごう百貨店では、父は、母が買い物をしている間も、一人で広い売り場の中をうろうろとしていたが、どこにいても、人ごみの上に頭が出ていたので、探しまわる必要はなかった。私も決して小柄ではないが、私の友人を含めて、自分の父親の背を超えることができなかったのは私ぐらいである。
私が5歳くらいの頃、三宮のバーに、なぜか連れて行ってくれた記憶が残っている。場所もどこか分からないが、記憶が正しければ名前は「マン」か、何かだったと思う。きれいな女性たちの注目を私が一人占めし、バナナが高級で病気の時にしか食べられなかった時代に、見たこともない細長いグラスに入った本物のフルーツジュースが出されたことを鮮明に覚えている。父は、おしゃれな誂えのブレザーを着て、オールドパーのロックグラスを片手にしていた。
家族では、今も残る生田神社の前にある洋食屋の「もん」に、よく出かけた。異国情緒のある店で、今も入口の扉は昔と同じだと思うのだが、いかにも常連だけがその扉を開けることができるのだという雰囲気を出している。私はきまってエビフライ、1歳年上の兄は、いつも小牛肉のローストを注文した。
田中さんの小説にも出てくるが、昔の神戸には、一種独特な趣があった。三宮や元町のバーやレストランに限らず、小説に登場するホテルやメリケン波止場、この街は、世界にというよりは異国に通じる不思議な期待感と不安が入り混じったような感覚を、小さい私に感じさせていたような気がする。
子供としては近寄りがたく、あまり話もできなかった父の若い頃は想像でしかないが、戦後の闇市の活況と、異国情緒の上品さの中で、ダンディズムにあこがれた大男は闊歩していたに違いない。
神戸っ子というと、おしゃれでハイカラ、新しいもの好き、ええ格好しい~、間違いなく私もその血をついでいることを誇りに思う。
田中良平氏に感謝。
(上は、氏の小説の中に頻繁に登場する旧居留地時代のオリエンタルホテル)
近作「バラード神戸」を、ご一読、ご紹介いただき恐縮です。読者の、とりわけ神戸の人びとの琴線にふれるものがあれば、著者として嬉しいことです。今作は思わぬところで反響をいただきました。「神戸」のタイトルに注目されたのか、著者には珍しい恋愛ものだからか、短編で読みやすいからか、神戸新聞の書評も好意的で、ジュンク堂では文学と話題のコーナー2箇所に平積みいただいています。
いままで上梓の度に、収蔵の有無に関係なく神戸中央図書館だけには謝意をこめて新本2冊を寄贈してきましたので、今回は念のため、東灘図書館のシステムで検索しましたら、すでに市内全図書館(14~15館?)が蔵書、ただし全館貸し出し中で、予約待ち30人、という結果に仰天しました。皆さんは、やはり神戸がお好きなんですね。
なお「青春疾走」と今作の間には、3作品を出しております。前作は「青春凛々」で、「・・・疾走」と連作のいわば「少女編」。日本敗戦を中心に前後約100年、日本の皇居前メーデー事件、中国の文化大革命と天安門事件を背景にして、3人の日本人少女と1人の中国人少年の激動の青春を描いています。この本にも戦後の神戸が登場しますので、お読みいただければ嬉しく、また読後感をお聞かせください(ドメス出版・2006年刊)。
投稿情報: 田中良平 | 2009年10 月23日 (金) 11:24
私も神戸育ちで大人になってから門に入り洋食をいただきました。
あのお店はそんな昔からあったんですね。
お店に入ったのはちょうど季節は今頃でした。
お客さんが沢山入っており品のある方が来られていたように思います。
社長は幼い頃から素敵なお店に出入りされていたんですね。
小さい頃に沢山のものを見て体験したことが大人になって感受性として出てくるらしいです。
特にものを考え出したり作ったりするアイデアに非常にプラスになるようです。
今テレビで『魅惑のインドシナ紀行』をみていて社長を思い出し久しぶりにブログ拝見しました。
私の知ってる社長は幼稚園からなので、既にその頃には同年代で誰も体験出来ないことをされていたんですね。
私の家族がそろって行ってたお店は新開地の中華料理屋さんだと思い出しました。
人は生まれた時の環境や勿論親も選べません。
親や環境が人を作ると言っても言い過ぎではないでしょう。
そして出逢う人で大きく人生が変わります。
私は沢山の人の影響のもとに今があると思っています。
神戸という街で生きてこれたことは幸せだと思います。
投稿情報: 花風紋 | 2009年12 月 5日 (土) 13:30